「財布を盗んだでしょ」「あなたしかいない」——毎日世話をしているのに、気づいたら泥棒扱いされていた。そんな経験をして、ひどく傷ついている方がいると思います。この記事では、認知症に特有の「物盗られ妄想」がなぜ起きるのか、なぜ一番身近な介護者が疑われるのか、そしてどう対応すれば本人も介護者も少しラクになるかを、看護師・介護福祉士として15年現場で働いてきた経験をもとにお伝えします。あなたが悪いわけでは、絶対にありません。
「財布を盗まれた」は本人にとって疑いようのない事実——嘘でもわがままでもない
なぜ物盗られ妄想が起きるのか——記憶障害と自尊心を守る脳のしくみ
物盗られ妄想は、認知症の「嘘」でも「わがまま」でも「演技」でもありません。
認知症になると、物をしまった記憶そのものが消えてしまいます。財布が見当たらないとき、「自分が失くした」とは思えない。なぜなら、失くした記憶もないからです。
そのとき脳は、空白を埋めるために「誰かが盗った」という結論を導き出します。これは意図的なものではなく、脳の防衛反応です。自分への信頼を守るために、外に原因を求める。本人にとっては「確かに盗られた」という揺るぎない確信なのです。
このような症状は「行動・心理症状(BPSD)」と呼ばれる認知症の症状の一つです。BPSDとは、認知症に伴って現れる不安・妄想・興奮・徘徊などの総称です。認知症の経過のなかでBPSDを経験する方は多く、研究によっては最大で9割程度にのぼるとも報告されています。物盗られ妄想は、そのなかでも代表的な症状の一つです。
どれくらいの人に起きているのか
「うちの親だけがこうなのか」と感じている方も多いと思います。しかしこれは、決して珍しいことではありません。
アルツハイマー型認知症では妄想がしばしばみられ、そのなかでも物盗られ妄想は最も多い類型とされています。物忘れ外来などの報告でも、妄想が現れた方の多くで物盗られ妄想が最多だったと伝えられています。
厚生労働省の研究班による新しい推計(2024年公表)では、認知症の方は2025年で約471万人、2040年には約584万人に達するとされています。高齢化が進むなかで、この症状に向き合うご家族は、日本中にたくさんいます。
珍しくない——でも、当事者にとってはとても苦しい。その両方が事実です。
認知症の方は物盗られ妄想に限らず、同じことを何度も繰り返し話すことも多くあります。こちらも合わせてご覧ください。
→ 認知症で同じ話を繰り返す理由と対応法
なぜ一番世話している「あなた」が疑われるのか
標的になるのは「いちばん接触が多い人」——嫌われているわけではない
物盗られ妄想で疑われるのは、決まって同居の娘や嫁、毎日通う家族です。「なんで私だけ」と思うのは当然です。
でも、これには理由があります。認知症の方が「誰かが盗った」と思ったとき、最初に名前が浮かぶのは、最もよく接する人です。それはただ、接触頻度が高いというだけのこと。あなたの人格でも、介護の質でも、ありません。
介護者が疑われるのは「責任ある立場にあるから」ではなく、「記憶のなかで最も身近にいる人だから」。現場でも、いちばん熱心に世話をしているご家族が真っ先に疑われる場面を、何度も見てきました。
疑われることは「あなたを必要としている」サインでもある
「あなたしかいない」という言葉は、責めているようで、実は依存と信頼の裏返しでもあります。
不安を感じたとき、人はいちばん近くにいる、いちばん頼れる相手にその気持ちを向けます。認知症の方も同じです。あなたが標的になるのは、あなたがその方にとってそれだけ身近で大切な存在だから——そう伝えると、「そんなきれいごと」と思う方もいるかもしれません。でも、これは現場で実感していることです。
理不尽でつらいのは当然です。けれど、あなたの関わり方が悪いから疑われているのでは、決してありません。疑われてつらいという気持ちを抱えながらも、症状のしくみを知ることで、少しだけ気持ちが楽になることがあります。
やってしまいがちな「否定・説得」が逆効果な理由
「盗ってない」と言うほど本人の不安は強くなる
「盗っていない」「ここにあるじゃないか」と証明しようとする——これは自然な反応です。しかし、このやり取りは多くの場合、かえって状況を悪くしてしまいます。
認知症の方は、否定されると「この人は隠している」「認めないようにしている」と受け取ることがあります。こちらが必死に説明するほど、本人の確信は強まる。口論になれば不安と興奮が高まり、BPSDはさらに強くなります。
認知症疾患診療ガイドライン(2017年、日本神経学会ほか)でも、BPSDへの対応として非薬物的な関わりを原則優先することが明記されています。否定・説得は効果がないだけでなく、逆効果になり得るのです。
「そうだね」と同調しすぎる落とし穴
では「盗まれたんだね」と全面同意すればいいかというと、それも注意が必要です。
「じゃあ誰が盗ったの?」「近所の人じゃない?」という会話が始まると、妄想の世界が広がっていきます。受け止めることと、乗りすぎることは違います。気持ちを受け取りながら、妄想の内容には同調しない——この絶妙なラインが、次のセクションで紹介する対応の基本になります。
今すぐ使える——物盗られ妄想への対応の5つのコツ
具体的なコツに入る前に、声かけの「やりがちなNG」と「おすすめのOK」を一覧にまとめました。まずはここだけでも持ち帰ってください。
| 場面 | ❌ つい言いがち | ⭕ こう返す |
|---|---|---|
| 「財布がない」と訴える | 「盗ってないよ」「また言ってる」 | 「それは困ったね、一緒に探そうか」 |
| 犯人扱いされた | 「証拠あるの?」「いい加減にして」 | 「そう感じて、不安なんだね」 |
| 見つかったとき | 「ほら、あったでしょ」と手渡す | 本人が自分で見つけられるようにそっと促す |
| 何度も繰り返す | 「さっきも言ったでしょ」 | 「大事なものだもんね、確認しようか」 |
コツ1:まず気持ちを受け止める
最初の一言が大切です。「盗ってない!」ではなく、「それは困りましたね」「大切なものがなくて、心配ですね」と、本人の不安そのものを受け取る言葉から始めましょう。
「一緒に探しましょうか」と続けると、本人は「この人は味方だ」と感じやすくなります。
コツ2:一緒に探す——そして「本人に見つけさせる」工夫
一緒に探すとき、最も大切なのは介護者が直接手渡さないことです。
「はい、ここにありましたよ」と渡してしまうと、「やっぱりあなたが持っていた」という確信につながりかねません。
現場で伺ったご家族の話です。財布をこっそりタンスの引き出しに戻しておいたところ、お母さんが自分で引き出しを開けて「あったわ」とつぶやいた。そのとき、責めるような言葉は一切出なかった、と。本人が自分で見つけた、という体験が大切なのです。さりげなく目につく場所に置いておき、本人が自分で見つけられるようにする——うまくいく場合がありますが、疑いが強いときは無理をせず、専門職に相談しながら進めてください。
コツ3:定位置を決める・予備を用意する
財布・通帳・鍵などは、本人が自分で確認できる定位置を決めておきましょう。「いつもここにある」という習慣が、不安を減らすことにつながります。
また、少額の現金を入れた「予備の財布」を用意しておく方法もあります。本人がその財布を見つけて安心することがあります。ただし、外出時のトラブルや管理の混乱を避けるため、中身は少額にし、家族で管理方法を決めておくと安心です。
コツ4:対応する人を分散させる
一人の介護者だけが対応し続けると、心身の負担が一点に集中します。デイサービスや訪問ヘルパー、別の家族など、関わる人を増やすことは「逃げ」ではありません。対応する人を分散させると、一人ひとりの負担が軽くなり、介護者が休む時間を作れます。環境や関わる人が変わることで、本人の気持ちが切り替わりやすくなることもあります。
コツ5:専門職・主治医に相談する
妄想が強い、興奮や暴言・暴力がある、生活に大きな支障が出ているという状況では、ためらわず受診・相談してください。
対応の基本は非薬物的な関わりですが、必要に応じて主治医と相談のうえ、薬を使うこともあります。BPSDに対する薬の使用については、複数の専門学会が共同で監修した「BPSDに対応する向精神薬使用ガイドライン(第3版・2025年)」でも、まず非薬物的な関わりを優先し、薬を使う場合も最小量・短期間が原則とされています。薬には転倒や眠気などの副作用もあるため、必ずかかりつけ医・専門医の判断のもとで検討してください。
介護者であるあなた自身を守ってください
「これだけ世話しているのに」——その怒りと悲しさは正当です
疑われたとき、「なんで私が」「こんなに頑張っているのに」と思うのは、当たり前の感情です。その気持ちを「仕方ない」と押し込めなくていいです。
近年は国の施策でも、認知症の方を支える家族介護者への支援が明確に位置づけられるようになりました。社会全体が、介護者の苦労を認識し、支えていく方向に動いています。あなた一人が全部背負う必要はありません。
距離を取ることは「逃げ」ではない
「私がいなくなったらどうなる」という罪悪感で、離れられない方がいます。でも、介護者が倒れたら誰も幸せになれません。
デイサービスを利用する、ヘルパーに任せる、家族で交代する——こうした選択は、あなた自身のためであり、結果として本人のためにもなります。離れる時間を作ることで、あなたの気持ちがリセットされ、戻ったときに穏やかに接することができる。これは現場で何度も目撃してきたことです。
夕方になると症状が強くなることも多く、特にその時間帯は介護者の疲労も重なりやすいです。「夕暮れ症候群」についても知っておくと、対処しやすくなります。
→ 認知症の夕暮れ症候群とは?
ひとりで抱え込まないための相談先
困ったときに使える窓口をまとめました。まず電話一本から始めてください。
地域包括支援センター
お住まいの市区町村に設置されています。認知症の相談・介護サービスのつなぎ役として無料で利用できます。「認知症の症状について相談したい」とだけ伝えれば大丈夫です。
認知症の人と家族の会
電話:0120-294-456
受付:月曜〜金曜 10:00〜15:00
全国どこからでも無料でかけられる相談窓口です。介護者同士でつながれる場でもあります。
認知症カフェ
地域ごとに開かれている、認知症のある方とご家族が集まれる場です。孤立しないための居場所として活用できます。
かかりつけ医・ケアマネジャー
症状の変化や対応に困ったときは、まずこの二人に連絡してください。専門職につなぐ役割も担っています。
まとめ——症状を知り、対応を変え、あなた自身を守る
物盗られ妄想は、認知症の脳が記憶の空白を埋めようとするときに起きる症状です。嘘でもわがままでもなく、本人にとっては確かな現実です。
そして、あなたが疑われているのは、あなたがその方にとって最も信頼し、最も依存している存在だから。これは理不尽なことですが、あなたの責任ではありません。
否定せず、かといって同調もしすぎず、気持ちを受け取りながら「本人が自分で見つける」状況を作る。この関わり方が、本人の不安を和らげることにつながります。
そして、疲弊しているあなた自身を守ることも、介護の一部です。一人で全部抱え込まなくていい。相談できる場所は、必ずあります。
まずは一つだけ試してみてください
まず、お住まいの地域の地域包括支援センターに電話してみてください。「認知症の症状について相談したい」とだけ伝えれば大丈夫です。何をどう話せばいいかわからなくても、向こうが導いてくれます。一人で全部解決しようとしなくて構いません。
免責事項
本記事は一般的な情報提供を目的としており、個別の医療・介護上の判断を行うものではありません。症状や対応にお困りの場合は、かかりつけ医・ケアマネジャー・地域包括支援センター等の専門職にご相談ください。
執筆者プロフィール
宮田浩行/看護師・介護福祉士・医療ライター。医療・介護現場での15年の経験をもとに、一般の方に向けた医療福祉情報を発信しています。X(旧Twitter):@miyata8hiroyuki
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